★Etienne Hajdu(エティエンヌ ハジュ)★ 1907年 Etienne Hajdu(エティエンヌ ハジュ)はオーストリア・ハンガリー帝政時代、1907年8月12日にTransylvanieのTurdaにて生まれた。父親の名はEdomond Hajduと言い、獣医であった。 1919年 Transylvanie連合国はルーマニア国と宣言。 1920~1922年 子供時代にMonts Apuseniの森を知り、その森に頻繁に訪れるうちに陶器職人を知る。 1923~1925年 Budapestを初めとして、Ujpestの工芸/装飾専門学校で学びながらKUT芸術集団の展覧会を頻繁に訪れ現代アート関係者との交流を構造・未来派では一番権威の高かった専門誌(MA)を通じて拡げていった。 1926年 ノルウエーの彫刻家がTurdaを休暇で訪れ、若きHajduの彫刻作品に良い評価を与えたのが父親がHajduをパリで彫刻の勉強をさせることに決めたきっかけとなった。 当初は、ウィーンで学ばせるのを望んでいた。理由は、Etienneが教えを受けていたKunstgewerbeschile校(装飾芸術学校)の教授がウィーンにいたからである。 1927 Parisに到着後、GrandeChaumiere校のBourdelleのアトリエに登録し数多くの美術館を訪れた。 1928年 Ecole des Arts Decoratifs de Paris(パリ装飾・工芸学校)に入学許可がおり、Paul Niclausseのアトリエにて学ぶ。その後、生活費を稼ぐため日中はテキスタイルのデッサンや鉛の兵隊の色付け、タイルの洗い作業などをし、授業は夜間に受けていた。 1929年 Boetie通りのPaul Rosenbergの画廊で行われたFernand Legerの展覧会を訪れた際、将来の針路の啓示を受け、学校を止め自分独自の内面の表現方法を探す決意をする。 1930年 Leger,Lurcat,Zadkine、その他の芸術家のアトリエにViera da SilvaやArpad Szenesと知り合い、一緒に頻繁に訪れた。Cent Sculptures Modernes(100の現代彫刻展)Brancusi,Laurens,Archipenko,Lipschitz,Maillol,Despiau,Boccioni,etc. Est naturaliseFrancaisの作品が展示された。 1933年 Montrougeに住む。彫刻家のアトリエで働き、昔の彫刻の複製作りを行う。仕事を終えた後、夜から展覧会へ行く。簡素な主題・ダイナミックな静止の対比を主題で作品を創り始める。 1935年 ロマン・ゴシック彫刻をより良く理解するため、自転車でフランス中の寺院を見て廻る。長男、Jacquesが生まれる。 1936年 Mondorianの芸術の源を理解するためオランダへ旅行する。Hommage a l’Espagne Republicaine(スペイン共和国へ捧げる)の作品を制作。 1937年 シクラド芸術の理解を深めるため、ギリシャへ旅行。アテネやクレタを訪れる。パリのSalon des Surindependants展覧会へ一回目の出展をする。Ouvriere 大学のMarcel Prenant教授の生物学の受講を始める。 1939年 Jeanne Bucherの画廊でViera da Silva・ArpadSzenesとの共同展を行う。軍に動員され、マジノ線へ送られる。 1940年 休戦後、動員をとかれる。Tarasconのアルミ工場で数ヶ月仕事をし、その後Bagneres-de-Bigorreで大理石の石工の仕事をする。 1941~1944年 大理石彫刻技術を使い夜や休みの日に、昆虫や鳥などの彫刻を作った。(こおろぎ、8つの翼の鳥)戦争の恐怖感から心に傷を受け、人の形は作れなかったレジスタンスへ参加。 1944年終戦後、Bagneres-en-Bigorreの美術館の展覧会へ出展。 1946年 パリのJeanne Bucher画廊にて、初めての個展を行う。「光と影」のシンプルでドラマチックな題材に従って作品は創作・展示され、作品のフォームは薄光の中で影によってより強調された。 1947年 モンマルトル大通りにあるFernand Legerのアトリエで教え5月展にLa Pastorale,Lignes et Courbes,などの作品群を出展。同時に La Parisiennも出展した。この作品は人を現した作品である。 1948年 Jeanne Bucherの画廊にて2回目の個展を行う 銅のレリーフでCombats d’Avions, Rythme de la machineなどの作品群。 1949年 若手彫刻家向け展覧会である、5月展にDe Rodin a nos joursのグループとして出展。銅版のレリーフ作品でHommage a Bela Bartok、鉛板の作品でPromenade a Senlisを出展。5月展実行委員会のメンバーになり、抽象彫刻の責任者となる。 1950年 5月展と、アントワープのMiddelheim公園で行われた第一回目のビエンナーレ彫刻展に出展。作品は銅版レリーフのLa Victoire . Epouse Luce Fery。 1953年 JeanneBucher画廊での個展と5月展、2回目のアントワープ・ビエンナーレ展に出展彫刻:Dame de Bagneux、人を幾何学的に表現した作品。銅版レリーフ:Les Loups(パリ現代美術館蔵)・Soldats bardes de fer(ニューヨーク現代美術館蔵)、その他数点の素焼き彫刻も出展。 1954年 パリとローザンヌにてグループ展に参加。アルミニウム版レリーフのDeux femmesとLes Jeunes filles,又、2種類の大きさの異なる大理石の頭像を光と影の効果を十分に使いシルエットのように 展示した。赤銅版レリーフのCadran Solaire(Marseilleveyre高校のために創られた作品)も出展された。 1955年 ニューヨーク現代美術館の招待で、イタリアに旅行をする。フィレンチェ・ピサ・ルクエ・シエヌ・ベニス などを訪れる。多数の展示会へ参加する。パリ・ローザンヌ・アントワープ・サンパウロなど。 1956年 パリのJeanne Bucher画廊、バーゼルのSuzanne Feigel画廊にて個展を開く。その他、フランスの展覧会へはグループ展に参加。大理石の頭像と銅版レリーフを多数創作する。又、芸術に関する内容のHommage a Brancusiと言う題名の本も著す。スイスに旅行。 1957 年 Jeanne Bucher画廊で個展。スイス・ベルンのKunsthallにて講演を行う。パリ・ロンドン・ノックルズオ・アントワープ・チューリッヒ・カラレ・ロサンジェルス・サンフランシスコ・リッチモンド・ミルウォーキーでグループ展に参加。出展作品は、銅版レリーフのFemmes d’Orgnac,Je suis amoureuxと多数の大理石彫刻作品。リトグラフ製作を始める。銅版に彫り紙に写す。(ポッシュ美術館蔵)このリトグラフ作成についてはRobert Ganzo氏のEtienne Hajduに詳しく案内されている。2回目のギリシャ旅行。ピレネー北部地方Aegeles-Gazost高校へセメントのレリーフ作品が作られた。 1958年 ニューヨークのKnoedler画廊にて初めて個展が行われた。パリのJeanne Bucher画廊にて個展。パリ・ニューヨーク・ピッツバーグにてグループ展。アルミニウム版のレリーフ作成:Pour Edgar Varese,Galaxie, Les Fusees. 1959年 ニューユークのKnoedler画廊にて個展。Haus Lange美術館主催のHarold Cousins・Alicia Penalbaとの共同展に参加。リトグラフの出展。多数のアルミニウム版レリーフを製作、題名は Tourbillon de lumiere, La lumiere se denude,Les traces d’eau,Une humble joie, Tensions discontinues,又、大理石彫刻も制作。 1960年 パリ、サンテチエンヌ、チューリッヒで多数のグループ展に参加。アルミニウム版レリーフ:Offrande a Gislebert,赤銅版レリーフ:Donatrices de souffle,Les Ombres、 1961年 ドイツ連邦共和国内の、ハノーバー・ドルトムント・マンハイム・リューベスクセンで展覧会をおこなう。Jeanne Bucher画廊にて個展。パリとアムステルダムの5月展に参加。ルーマニアへ旅行。Pierre Lecuireのためにリトグラフ作成。「芸術家の家」のためにセメントの薄レリーフを作成。 1962年 ニューヨークのKnoedler画廊、米国シンシナティのTaft美術館にて個展。アメリカとメキシコ旅行。途中で考古学発掘作業風景に感銘を受ける。パリ・アメリカで多数のグループ展に新鋼材作品で参加。この新鋼材(ジュラルミン)の耐久・強靭性は今までの彫刻とはまったく違う、新しい道の可能性を示唆し、航空関係にも広がっているがHAJDUの作品にも大きな影響を与えた。 1963年 シカゴのアートクラブにて個展。パリ・ローザンヌ・ブリュセッル・オックスフォード・パドでグループ展に参加。鉛版・真鍮のレリーフ作品で多数の作品を制作。ジュラルミンでの彫刻やJacques Dupinの詩から着想したリトグラフも作成。 Saint-GallのHochschuleのために鉛レリーフを製作。 1964年 ワシントンのPhilipsにて個展。パリ・ロイヨーモン・ロンドン・ピッツバーク、ドクメンタでグループ展に参加。多数のブロンズや大理石の彫刻を制作する。 1965年 パリのKnoedler画廊、ドイツ・ケルンのDer Spiegel画廊で個展。パリ・ロワイエ・クッケンホフ・カラレ・スコップ・ニューヨーク・東京・ブラジルでグループ展に参加。ブロンズ、アルミニウム、石盤石の彫刻を制作。セーブル工房の代表責任者であったSerge Gauthierの依頼によりセーブル工房の諸作品製作のため、同工房の装飾・フォームを学び始めた。この提携は素晴らしい結果を得た。Clemence Ramnouxが愛書家のために限定出版した書籍で紹介をしているが、特にHeracliteの原本に関する事項は多数の商標登録が行われた。彫刻分野で権威あるNordrhein-Westphalen賞をデュセルドルフにて受けた。 1966年 パリ・グルノーブル・サンポールバンス・フランクフルト・カーセル・ソンスブック・ベルネでグループ展に参加。出展作品は光沢アルミニウムの薄レリーフ。中近東へ旅行。レバノン・シリア・ヨルダンに滞在。ナンテールのJacques Decour複合校のためにセメント薄レリーフを作成(建築A.Remondet)エソンの「芸術家の家」のためにセメント薄レリーフを作成(建築 G.Johannet)ディジョンの科学農業大学のためにブロンズ彫刻を作成。 1967年 バグノー・トノンレバンで個展。パリ・グルノーブル・ディジョン・サンポールバンス・エデングルグ・ダルムスタッド・イスタンブルグ・モントレアル・ピッツブルグでグループ展に参加。インタナショナル・イスタンブルグ陶器展覧会にて金賞を受賞。グルノーブルのホテル新築のためブロンズ彫刻を制作(建築 M.Novarina)光沢アルミニウム、イノックス石、大理石、ブロンズで厚レリーフ製作。 Hajduにとってアルミニウムの厚レリーフは初めての試みだった。題材は商標登録後、コンテンポラン劇場のバレーポスターにも使用された。ルーマニアへ旅行。コロックスーブランクシで個展。パリの美術愛好家の図書室のためブロンズで支柱と扉を製作。 1968年 パリのKnoedler画廊にて個展。パリ・ディジョン・グルノーブル・アミアン・ケルン・ルガノブラッドフォード・ポルトリコ・サンテアゴ・カラカスでグループ展に参加。ディジョンの科学農業大学のため厚アルミニウムレリーフを作成。大理石、ブロンズ、亜鉛版、アルミニウムで彫刻を作成。ルガノのBianco e Nero展覧会で彫版の部門で受賞。 1969年 彫刻の部門で国の大賞を受賞。新設のHavre美術館・ニューヨークのKnoedler画廊にて個展。パリ・サンポールバンス・ツールーズ・ニューヨーク・パルマビーチにてグループ展に参加。造幣局の依頼にて、フランス大統領、Georges Pompidouのメダル作成。アルミニウム・大理石・ブロンズ・石盤石で彫刻制作。バレーの振り付けでは世界の第一人者であるMylko Spareblakeコンテンポラン劇場代表のためバレー演目:Cantate profaneの舞台アートと衣装を考案した。国立家具美術館の床装飾の下絵を描く。 1970年 ツールズで個展。パリ・サンテチアン・モントルイユ・マッコン・オブソン・カレナック・リジェカ・イスタンブルグ ・ブエノスアイレスでグループ展に参加。ニースの医学校の中庭に設置のためアルミニウム彫刻を制作。ボーベイ国立工芸工房の壁装飾のための下絵を描く。 1971年 ブリュッセルのRegence画廊にて個展。フランス・スイス・ドイツ・ポーランド・アメリカ・カナダにてグループ展に参加。参加作品の題名は、Hommage a Louis PasteurでリールのPublique広場に設置のため製作された。 1973年 国立パリ現代アート美術館にて回顧展。 1974年 リスボンのCalouste Gulbekian美術財団主催の回顧展。Etienne Hajduはエジプトの「死者の書」の訳で有名なJ-C-Mardrusの推薦により著名人リストに記載される。 1978~1979年 フランス、ハンバリー、ルーマニア、チュニジアの数多くの美術館で巡回展が行われる。 1979年 彼の作品の内、素焼きと陶器製の作品はボルドーとリモージュにて個展が行われた。「紙の作品展」がパリ現代美術館にて行われた。 1981年 パリ現代美術館での「Paris-Paris」展示会に出展参加。 1982年 クリュニーで展覧会。パリのLouis Carre Cie画廊にて個展。 1983年 ランスのサンドニ美術館、リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。 1985年 リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。 1987年 パリのアーククリアル・プデオスのアートセンター・リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。 1988年 バニュー・ルイアラゴン図書館・Sud La Cite画廊にて展覧会。 1989年 ブタペストのVidago、リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。 1991年 ツールーズの現代美術館、Jacobins修道院食堂跡で「Etienne Hajdu」展覧会。 1993年 サンレミレシュブルーズ、Coubertin財団で「Etienne HAJDU」展覧会。 1996年 Etienne Hajduは3月24日にバニョーにて没した。友人の天体学者が1973年に発見された7316星を星の命名帳にHajudの名前の星として登録(3145T.2)した。 1997年 パリのFiac-Espace Branly, Louis Carre & Cie画廊にて「Etienne Hajdu、彫刻展」 1998年 レアルク(ロット)とZadkine美術館にて「Etienne Hajdu、彫刻とデッサン展」パリのLouis Carre 画廊にて「Etienne Hajdu,薄レリーフと厚レリーフ展」2001年10月10日、リュバンの産業・芸術美術館の開館式で展示。 1999年 パリのLouis Carre Cie画廊にて「Etienne Hajdu、薄レリーフと厚レリーフ展」 2001年 10月10日、リュバンの産業・芸術美術館の開館式で展示。
★Sevres(cit de la cramique)★ フランスが誇るセーブル窯はポンパドール婦人の助力もあって、王立窯として発展を遂げました。1759年、王立セーブル製陶所となり、今もフランスの文化と美を伝える優れた陶磁器を生み出し続ける国立セーブル製陶所の歴史はここに始まります。セーブルの功績は、国家的使命ともいえるフランス独自の意匠を確立し、完成度の高い芸術作品を作り続けてきたことにあります。18世紀、セーブルは東洋芸術の様式をうけつぎながらも、当代一流の化学者、画家、彫刻家、金工家の参加によって独自の世界を創造しました。「王者の青」「ローズ・ポンパドール」と呼ばれるセーブルの色、華美で鮮麗な装飾、独特の風合を持つソフトペーストなど、他の追随を許さないセーブル芸術が、宮廷文化の中に華開いたのです。盛名を馳せたセーブルも、国窯という背景から生産は非常に限定され、世の人々の目に触れることは少なく、「希少な陶磁器」と呼ばれました。今日に至っても、生産量は年間約6000ピースと限定され、そのほとんどがフランス国家のために作られます。この少量生産は、「最高の作品を作り出す」ための必然であり、その稀少性ゆえに、誇り高きセーブルの名声は一段と高まっています。
ブランド(原産国)
【セーブル・SEVRES】フランス
作品名(パターン)
Vase Serge,1976(花瓶・セルジュ)
原作制作年度
1976年 Etienne Hajdu(エティエンヌ ハジュ)
制作年度
2001年
作品サイズ
高さ:35cm,口径:16.5x17cm
特記事項
画像と実際の作品の色合い及び風合いは微妙に異なります。
ギフト包装
対応できません。
参考上代(定価)
オープンプライス
作品説明
【素材:PN(ヌーベルペースト)1882~1884年にセーブル工房で改良認可された素材】
この作品は窪みのレリーフ装飾、表面は白の半ぼかし仕上げ。原作者Etienne Hajdu(エティエンヌ ハジュ)のサインは底部に彫り込まれています。 20世紀初頭、セーブル陶磁器製作所工房で創られた花瓶(VASE)の形体には主に街などの地名がつけられ、1918年~1920年には大河の名前が付けられました。1923年から1925年以降には製作者の名前がつけられるようになりました。
作品にはセーブル工房のロゴと制作年度が記されています。
☆Pate dure nouvelle(ou P.N)☆
ヌーベルペースト(新硬質磁器 P.N):基本素材はカオリン、長石、水晶(これらの素材は1882~1884年にセーブル工房で開発された)で、PNはこれらの素材を1280℃~1300℃で焼く。
★Etienne Hajdu(エティエンヌ ハジュ)★
1907年
Etienne Hajdu(エティエンヌ ハジュ)はオーストリア・ハンガリー帝政時代、1907年8月12日にTransylvanieのTurdaにて生まれた。父親の名はEdomond Hajduと言い、獣医であった。
1919年
Transylvanie連合国はルーマニア国と宣言。
1920~1922年
子供時代にMonts Apuseniの森を知り、その森に頻繁に訪れるうちに陶器職人を知る。
1923~1925年
Budapestを初めとして、Ujpestの工芸/装飾専門学校で学びながらKUT芸術集団の展覧会を頻繁に訪れ現代アート関係者との交流を構造・未来派では一番権威の高かった専門誌(MA)を通じて拡げていった。
1926年
ノルウエーの彫刻家がTurdaを休暇で訪れ、若きHajduの彫刻作品に良い評価を与えたのが父親がHajduをパリで彫刻の勉強をさせることに決めたきっかけとなった。 当初は、ウィーンで学ばせるのを望んでいた。理由は、Etienneが教えを受けていたKunstgewerbeschile校(装飾芸術学校)の教授がウィーンにいたからである。
1927
Parisに到着後、GrandeChaumiere校のBourdelleのアトリエに登録し数多くの美術館を訪れた。
1928年
Ecole des Arts Decoratifs de Paris(パリ装飾・工芸学校)に入学許可がおり、Paul Niclausseのアトリエにて学ぶ。その後、生活費を稼ぐため日中はテキスタイルのデッサンや鉛の兵隊の色付け、タイルの洗い作業などをし、授業は夜間に受けていた。
1929年
Boetie通りのPaul Rosenbergの画廊で行われたFernand Legerの展覧会を訪れた際、将来の針路の啓示を受け、学校を止め自分独自の内面の表現方法を探す決意をする。
1930年
Leger,Lurcat,Zadkine、その他の芸術家のアトリエにViera da SilvaやArpad Szenesと知り合い、一緒に頻繁に訪れた。Cent Sculptures Modernes(100の現代彫刻展)Brancusi,Laurens,Archipenko,Lipschitz,Maillol,Despiau,Boccioni,etc. Est naturaliseFrancaisの作品が展示された。
1933年
Montrougeに住む。彫刻家のアトリエで働き、昔の彫刻の複製作りを行う。仕事を終えた後、夜から展覧会へ行く。簡素な主題・ダイナミックな静止の対比を主題で作品を創り始める。
1935年
ロマン・ゴシック彫刻をより良く理解するため、自転車でフランス中の寺院を見て廻る。長男、Jacquesが生まれる。
1936年
Mondorianの芸術の源を理解するためオランダへ旅行する。Hommage a l’Espagne Republicaine(スペイン共和国へ捧げる)の作品を制作。
1937年
シクラド芸術の理解を深めるため、ギリシャへ旅行。アテネやクレタを訪れる。パリのSalon des Surindependants展覧会へ一回目の出展をする。Ouvriere 大学のMarcel Prenant教授の生物学の受講を始める。
1939年
Jeanne Bucherの画廊でViera da Silva・ArpadSzenesとの共同展を行う。軍に動員され、マジノ線へ送られる。
1940年
休戦後、動員をとかれる。Tarasconのアルミ工場で数ヶ月仕事をし、その後Bagneres-de-Bigorreで大理石の石工の仕事をする。
1941~1944年
大理石彫刻技術を使い夜や休みの日に、昆虫や鳥などの彫刻を作った。(こおろぎ、8つの翼の鳥)戦争の恐怖感から心に傷を受け、人の形は作れなかったレジスタンスへ参加。 1944年終戦後、Bagneres-en-Bigorreの美術館の展覧会へ出展。
1946年
パリのJeanne Bucher画廊にて、初めての個展を行う。「光と影」のシンプルでドラマチックな題材に従って作品は創作・展示され、作品のフォームは薄光の中で影によってより強調された。
1947年
モンマルトル大通りにあるFernand Legerのアトリエで教え5月展にLa Pastorale,Lignes et Courbes,などの作品群を出展。同時に La Parisiennも出展した。この作品は人を現した作品である。
1948年
Jeanne Bucherの画廊にて2回目の個展を行う 銅のレリーフでCombats d’Avions, Rythme de la machineなどの作品群。
1949年
若手彫刻家向け展覧会である、5月展にDe Rodin a nos joursのグループとして出展。銅版のレリーフ作品でHommage a Bela Bartok、鉛板の作品でPromenade a Senlisを出展。5月展実行委員会のメンバーになり、抽象彫刻の責任者となる。
1950年
5月展と、アントワープのMiddelheim公園で行われた第一回目のビエンナーレ彫刻展に出展。作品は銅版レリーフのLa Victoire . Epouse Luce Fery。
1953年
JeanneBucher画廊での個展と5月展、2回目のアントワープ・ビエンナーレ展に出展彫刻:Dame de Bagneux、人を幾何学的に表現した作品。銅版レリーフ:Les Loups(パリ現代美術館蔵)・Soldats bardes de fer(ニューヨーク現代美術館蔵)、その他数点の素焼き彫刻も出展。
1954年
パリとローザンヌにてグループ展に参加。アルミニウム版レリーフのDeux femmesとLes Jeunes filles,又、2種類の大きさの異なる大理石の頭像を光と影の効果を十分に使いシルエットのように 展示した。赤銅版レリーフのCadran Solaire(Marseilleveyre高校のために創られた作品)も出展された。
1955年
ニューヨーク現代美術館の招待で、イタリアに旅行をする。フィレンチェ・ピサ・ルクエ・シエヌ・ベニス などを訪れる。多数の展示会へ参加する。パリ・ローザンヌ・アントワープ・サンパウロなど。
1956年
パリのJeanne Bucher画廊、バーゼルのSuzanne Feigel画廊にて個展を開く。その他、フランスの展覧会へはグループ展に参加。大理石の頭像と銅版レリーフを多数創作する。又、芸術に関する内容のHommage a Brancusiと言う題名の本も著す。スイスに旅行。
1957 年
Jeanne Bucher画廊で個展。スイス・ベルンのKunsthallにて講演を行う。パリ・ロンドン・ノックルズオ・アントワープ・チューリッヒ・カラレ・ロサンジェルス・サンフランシスコ・リッチモンド・ミルウォーキーでグループ展に参加。出展作品は、銅版レリーフのFemmes d’Orgnac,Je suis amoureuxと多数の大理石彫刻作品。リトグラフ製作を始める。銅版に彫り紙に写す。(ポッシュ美術館蔵)このリトグラフ作成についてはRobert Ganzo氏のEtienne Hajduに詳しく案内されている。2回目のギリシャ旅行。ピレネー北部地方Aegeles-Gazost高校へセメントのレリーフ作品が作られた。
1958年
ニューヨークのKnoedler画廊にて初めて個展が行われた。パリのJeanne Bucher画廊にて個展。パリ・ニューヨーク・ピッツバーグにてグループ展。アルミニウム版のレリーフ作成:Pour Edgar Varese,Galaxie, Les Fusees.
1959年
ニューユークのKnoedler画廊にて個展。Haus Lange美術館主催のHarold Cousins・Alicia Penalbaとの共同展に参加。リトグラフの出展。多数のアルミニウム版レリーフを製作、題名は Tourbillon de lumiere, La lumiere se denude,Les traces d’eau,Une humble joie, Tensions discontinues,又、大理石彫刻も制作。
1960年
パリ、サンテチエンヌ、チューリッヒで多数のグループ展に参加。アルミニウム版レリーフ:Offrande a Gislebert,赤銅版レリーフ:Donatrices de souffle,Les Ombres、
1961年
ドイツ連邦共和国内の、ハノーバー・ドルトムント・マンハイム・リューベスクセンで展覧会をおこなう。Jeanne Bucher画廊にて個展。パリとアムステルダムの5月展に参加。ルーマニアへ旅行。Pierre Lecuireのためにリトグラフ作成。「芸術家の家」のためにセメントの薄レリーフを作成。
1962年
ニューヨークのKnoedler画廊、米国シンシナティのTaft美術館にて個展。アメリカとメキシコ旅行。途中で考古学発掘作業風景に感銘を受ける。パリ・アメリカで多数のグループ展に新鋼材作品で参加。この新鋼材(ジュラルミン)の耐久・強靭性は今までの彫刻とはまったく違う、新しい道の可能性を示唆し、航空関係にも広がっているがHAJDUの作品にも大きな影響を与えた。
1963年
シカゴのアートクラブにて個展。パリ・ローザンヌ・ブリュセッル・オックスフォード・パドでグループ展に参加。鉛版・真鍮のレリーフ作品で多数の作品を制作。ジュラルミンでの彫刻やJacques Dupinの詩から着想したリトグラフも作成。 Saint-GallのHochschuleのために鉛レリーフを製作。
1964年
ワシントンのPhilipsにて個展。パリ・ロイヨーモン・ロンドン・ピッツバーク、ドクメンタでグループ展に参加。多数のブロンズや大理石の彫刻を制作する。
1965年
パリのKnoedler画廊、ドイツ・ケルンのDer Spiegel画廊で個展。パリ・ロワイエ・クッケンホフ・カラレ・スコップ・ニューヨーク・東京・ブラジルでグループ展に参加。ブロンズ、アルミニウム、石盤石の彫刻を制作。セーブル工房の代表責任者であったSerge Gauthierの依頼によりセーブル工房の諸作品製作のため、同工房の装飾・フォームを学び始めた。この提携は素晴らしい結果を得た。Clemence Ramnouxが愛書家のために限定出版した書籍で紹介をしているが、特にHeracliteの原本に関する事項は多数の商標登録が行われた。彫刻分野で権威あるNordrhein-Westphalen賞をデュセルドルフにて受けた。
1966年
パリ・グルノーブル・サンポールバンス・フランクフルト・カーセル・ソンスブック・ベルネでグループ展に参加。出展作品は光沢アルミニウムの薄レリーフ。中近東へ旅行。レバノン・シリア・ヨルダンに滞在。ナンテールのJacques Decour複合校のためにセメント薄レリーフを作成(建築A.Remondet)エソンの「芸術家の家」のためにセメント薄レリーフを作成(建築 G.Johannet)ディジョンの科学農業大学のためにブロンズ彫刻を作成。
1967年
バグノー・トノンレバンで個展。パリ・グルノーブル・ディジョン・サンポールバンス・エデングルグ・ダルムスタッド・イスタンブルグ・モントレアル・ピッツブルグでグループ展に参加。インタナショナル・イスタンブルグ陶器展覧会にて金賞を受賞。グルノーブルのホテル新築のためブロンズ彫刻を制作(建築 M.Novarina)光沢アルミニウム、イノックス石、大理石、ブロンズで厚レリーフ製作。 Hajduにとってアルミニウムの厚レリーフは初めての試みだった。題材は商標登録後、コンテンポラン劇場のバレーポスターにも使用された。ルーマニアへ旅行。コロックスーブランクシで個展。パリの美術愛好家の図書室のためブロンズで支柱と扉を製作。
1968年
パリのKnoedler画廊にて個展。パリ・ディジョン・グルノーブル・アミアン・ケルン・ルガノブラッドフォード・ポルトリコ・サンテアゴ・カラカスでグループ展に参加。ディジョンの科学農業大学のため厚アルミニウムレリーフを作成。大理石、ブロンズ、亜鉛版、アルミニウムで彫刻を作成。ルガノのBianco e Nero展覧会で彫版の部門で受賞。
1969年
彫刻の部門で国の大賞を受賞。新設のHavre美術館・ニューヨークのKnoedler画廊にて個展。パリ・サンポールバンス・ツールーズ・ニューヨーク・パルマビーチにてグループ展に参加。造幣局の依頼にて、フランス大統領、Georges Pompidouのメダル作成。アルミニウム・大理石・ブロンズ・石盤石で彫刻制作。バレーの振り付けでは世界の第一人者であるMylko Spareblakeコンテンポラン劇場代表のためバレー演目:Cantate profaneの舞台アートと衣装を考案した。国立家具美術館の床装飾の下絵を描く。
1970年
ツールズで個展。パリ・サンテチアン・モントルイユ・マッコン・オブソン・カレナック・リジェカ・イスタンブルグ ・ブエノスアイレスでグループ展に参加。ニースの医学校の中庭に設置のためアルミニウム彫刻を制作。ボーベイ国立工芸工房の壁装飾のための下絵を描く。
1971年
ブリュッセルのRegence画廊にて個展。フランス・スイス・ドイツ・ポーランド・アメリカ・カナダにてグループ展に参加。参加作品の題名は、Hommage a Louis PasteurでリールのPublique広場に設置のため製作された。
1973年
国立パリ現代アート美術館にて回顧展。
1974年
リスボンのCalouste Gulbekian美術財団主催の回顧展。Etienne Hajduはエジプトの「死者の書」の訳で有名なJ-C-Mardrusの推薦により著名人リストに記載される。
1978~1979年
フランス、ハンバリー、ルーマニア、チュニジアの数多くの美術館で巡回展が行われる。
1979年
彼の作品の内、素焼きと陶器製の作品はボルドーとリモージュにて個展が行われた。「紙の作品展」がパリ現代美術館にて行われた。
1981年
パリ現代美術館での「Paris-Paris」展示会に出展参加。
1982年
クリュニーで展覧会。パリのLouis Carre Cie画廊にて個展。
1983年
ランスのサンドニ美術館、リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。
1985年
リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。
1987年
パリのアーククリアル・プデオスのアートセンター・リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。
1988年
バニュー・ルイアラゴン図書館・Sud La Cite画廊にて展覧会。
1989年
ブタペストのVidago、リュクサンブルグのLa Cite画廊にて展覧会。
1991年
ツールーズの現代美術館、Jacobins修道院食堂跡で「Etienne Hajdu」展覧会。
1993年
サンレミレシュブルーズ、Coubertin財団で「Etienne HAJDU」展覧会。
1996年
Etienne Hajduは3月24日にバニョーにて没した。友人の天体学者が1973年に発見された7316星を星の命名帳にHajudの名前の星として登録(3145T.2)した。
1997年
パリのFiac-Espace Branly, Louis Carre & Cie画廊にて「Etienne Hajdu、彫刻展」
1998年
レアルク(ロット)とZadkine美術館にて「Etienne Hajdu、彫刻とデッサン展」パリのLouis Carre 画廊にて「Etienne Hajdu,薄レリーフと厚レリーフ展」2001年10月10日、リュバンの産業・芸術美術館の開館式で展示。
1999年
パリのLouis Carre Cie画廊にて「Etienne Hajdu、薄レリーフと厚レリーフ展」
2001年
10月10日、リュバンの産業・芸術美術館の開館式で展示。
★Sevres(cit de la cramique)★
フランスが誇るセーブル窯はポンパドール婦人の助力もあって、王立窯として発展を遂げました。1759年、王立セーブル製陶所となり、今もフランスの文化と美を伝える優れた陶磁器を生み出し続ける国立セーブル製陶所の歴史はここに始まります。セーブルの功績は、国家的使命ともいえるフランス独自の意匠を確立し、完成度の高い芸術作品を作り続けてきたことにあります。18世紀、セーブルは東洋芸術の様式をうけつぎながらも、当代一流の化学者、画家、彫刻家、金工家の参加によって独自の世界を創造しました。「王者の青」「ローズ・ポンパドール」と呼ばれるセーブルの色、華美で鮮麗な装飾、独特の風合を持つソフトペーストなど、他の追随を許さないセーブル芸術が、宮廷文化の中に華開いたのです。盛名を馳せたセーブルも、国窯という背景から生産は非常に限定され、世の人々の目に触れることは少なく、「希少な陶磁器」と呼ばれました。今日に至っても、生産量は年間約6000ピースと限定され、そのほとんどがフランス国家のために作られます。この少量生産は、「最高の作品を作り出す」ための必然であり、その稀少性ゆえに、誇り高きセーブルの名声は一段と高まっています。