▼画家紹介 ----------------------------------------------------------------------- 1746年~1828年 ロマン主義フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco Jose de Goya y Lucientes) スペインの巨匠、近代絵画の創始者とも言われる、フランシスコ・デ・ゴヤ。14歳の頃からサラゴーサで地元の画家に師事して絵画の修行を開始。タピスリーの下絵描きとして修業を積む。1770年にイタリア留学に行くが、帰ってきたあとも、依然としてタピスリーの下絵を描く仕事は続いた。長年タピスリーの下絵を描く仕事をしていたゴヤにチャンスが訪れたのは1774年。このとき初めて王室のタピスリーの下絵を描いた。それからというのも1786年に40歳で国王カルロス3世付き画家となり、その後1789年には念願だった宮廷画家となり、首席宮廷画家の地位にまでのぼりつめた。しかし、1792年、不治の病に侵され聴力を失うと、そこからの作風は暗い色彩のものへと変化する。当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命。1826年、宮廷画家を引退する。1828年、82歳のとき、亡命先のボルドーで死去。
フランシスコ・デ・ゴヤ
「我が子を喰らうサトゥルヌス」
▼画家紹介
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1746年~1828年 ロマン主義フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco Jose de Goya y
Lucientes)
スペインの巨匠、近代絵画の創始者とも言われる、フランシスコ・デ・ゴヤ。14歳の頃からサラゴーサで地元の画家に師事して絵画の修行を開始。タピスリーの下絵描きとして修業を積む。1770年にイタリア留学に行くが、帰ってきたあとも、依然としてタピスリーの下絵を描く仕事は続いた。長年タピスリーの下絵を描く仕事をしていたゴヤにチャンスが訪れたのは1774年。このとき初めて王室のタピスリーの下絵を描いた。それからというのも1786年に40歳で国王カルロス3世付き画家となり、その後1789年には念願だった宮廷画家となり、首席宮廷画家の地位にまでのぼりつめた。しかし、1792年、不治の病に侵され聴力を失うと、そこからの作風は暗い色彩のものへと変化する。当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命。1826年、宮廷画家を引退する。1828年、82歳のとき、亡命先のボルドーで死去。
▼作品紹介
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ゴヤ【我が子を喰らうサトゥルヌス】
1820年~1823年 原画サイズ(146×83cm)所蔵:プラド美術館
この作品の主題は、ギリシア神話の「我が子を喰らうサトゥルヌス」の場面を描いたもので、バロック期の画家ルーベンスによって描かれた作品に強い影響を受けて制作されたとされている。この作品は、1819年にマドリッド郊外マンサナレス河畔に購入した別荘の壁画で、ゴヤが聴力を失ってから描いた「黒い絵」のうちのひとつである。