【中古】 Mitropoulos / Nyp: The Art Of Dimitri Mitropoulos Live With The New York Philharmonic 【CD】:HMV&BOOKS online 1号店
【中古】 Mitropoulos / Nyp: The Art Of Dimitri Mitropoulos Live With The New York Philharmonic 【CD】:HMV&BOOKS online 1号店
商品説明・詳細
送料・お届け
商品情報
写真同じです商品説明(こちらは新品の商品説明となります。参考として下さいませ。中古商品にはサイト上に記載がある場合でも、封入/外付け特典は付属いたしません。)ディミトリー・ミトロプーロスの芸術(19CD)ライヴ・レコーディングス with ニューヨーク・フィルハーモニックヒストリカル系レーベル、スクリベンダムから往年のギリシャ人指揮者ミトロプーロスのニューヨーク・フィル・ライヴ録音ボックスが登場。マーラーの交響曲第1番、第3番、第5番、第6番、第9番、第10番、ストラヴィンスキー「火の鳥」、ベートーヴェン「英雄」(2種)と第1番、第8番、R.シュトラウス「アルプス交響曲」、「家庭交響曲」、「ドン・ファン」、「死と変容」、「影の無い女」交響的幻想曲、ダンディ「ヴァレンシュタイン」、ヒンデミット「世界の調和」、そしてヴェーベルン「パッサカリア」など実演のミトロプーロスの魅力を伝える録音が多数収録されています。 ディオニュソス的芸風ミトロプーロスのプロとしての最初の固定給仕事は、1922年9月にシュティードリーとブゾーニの推薦で契約できたベルリン国立歌劇場のコレペティートア(助手)というものでした。 戦争や進路変更のせいで、26歳になってもまだブゾーニのもとで勉強中だったミトロプーロスは、上司の第1指揮者フリッツ・シュティードリーのもとでさまざまな実務をこなし、1年後には契約を更新、オーケストラのリハーサル指揮や、本番でのピアノ演奏なども任されるようになり、すでに「コレペティートア」の枠を超えた存在になっていました。 その実務上の恩師とも言えるフリッツ・シュティードリーは、マーラーの弟子でシェーンベルクの仲間ともいえる人物ですが、彼はベルリン国立歌劇場のミトロプーロスとジョージ・セルについて、「2人は昼と夜ほども違う」としてこう語っています。「一方は首から上、もう一方は首から下」冷静でアポロ的なジョージ・セルと、情熱的でディオニュソス的なミトロプーロスという対比なのでしょうが言いえて妙です。 ちなみにミトロプーロスが早くから熱心にマーラーと新ウィーン楽派作品に取り組んでいたのは、そのシュティードリーの影響と考えられますし、ブゾーニをよくとりあげたのもやはり恩師への感謝の気持ちでしょう。 そしてミトロプーロスのディオニュソス的なスタイルが特に成功したマーラーでの解釈は、バーンスタインなど多くの指揮者に影響を与えることになります。 暗譜ミトロプーロスは作品を徹底的に研究・咀嚼し、独自の記憶法で暗譜することでも知られています。 トスカニーニも絶賛したというその記憶内容には、練習番号やページ番号、小節番号まで含まれるというから驚きです。ミトロプーロスの勉強風景を目撃した人の情報では、小さなメモ用紙を何枚も使った一種の記憶術のようなものということですが、何であれ驚異的なことに違いはありません。ベルクの「ヴォツェック」のような複雑で記譜情報も膨大な作品まで暗譜でしたので。 指揮ミトロプーロスは、作品を暗譜すると、本番(とリハーサル)で全身を使ったダイナミックな動作によって楽員(と聴衆)に向けて作品情報を伝えます。 ときにうずくまったり高く飛び上がったり、楽員の間を歩き回ったりしてコンサートの聴衆を驚かせたりもしたようですが、遺されたライヴ音源を聴くと、どれも個性豊かな演奏なので、ミトロプーロスの極端な方法が効果的だったことがわかります。 ミトロプーロスは初期には指揮棒を使ったり使わなかったりしましたが、1933年からは指揮棒を使わなくなっています。 しかし1954年にメトロポリタン歌劇場の首席指揮者になってからは、オーケストラピットから歌手に指示を出すには指揮棒があった方が良いということで、以後は指揮棒を使うようになっています。前年に最初の心臓発作に襲われ、医師から体を酷使することを控え、指揮棒を使うように勧められたことも理由のひとつです。 つまりミネアポリス響時代[1938-1948]は全期間が指揮棒無し、ニューヨーク・フィル時代[1949-1958]は5年目から指揮棒ありということになります。 弾き振りで得た世界的名声1924年の春にベルリンからアテネに戻ったミトロプーロスは、地元のオケを指揮したり、教えたりして過ごしていましたが、1930年にベルリン・フィルに客演できることになります。 曲目は、自作のコンチェルト・グロッソ、デュカスの交響曲、そしてエゴン・ペトリ[1881-1962]の弾くプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番というもので、要するにエゴン・ペトリがメインということでした。 しかし、直前になってペトリがキャンセルしてきたため、ほかのピアニストにも打診するものの急なことで引き受け手がおらず、結局、ミトロプーロスが弾き振りをすることになり、これがベルリンの聴衆に衝撃を与えることになります。 以後、ミトロプーロスは客演の際にはこの弾き振りをプログラムに組み込むようになり、一度弾いたところでは、次のシーズンの依頼が入ることも多く、さらに客演要請は続々と届き、リオデジャネイロや東京などの遠方からの要請には応じられない多忙な状況が続きます。 そしてこのミトロプーロスの成功に複雑な思いを抱いていたのが作曲者のプロコフィエフ本人です。プロコフィエフは優れたピアニストでもあり、自作の演奏をすることで著作権料と演奏報酬の両方を得ており、それが大きな収入にもなっていました。 演奏回数が増えたのは著作権料面では良いものの、自分の出番が減ってしまったのは少し残念だったようで、1932年にパリ公演を聴いた際には、友人に向かって「ミトロプーロスにすっかりやられてしまったよ。私は自分のために別の協奏曲を書かなければならないようだ。」と語っています。もっとも、すでにその頃にはピアノ協奏曲第5番を作曲中で、夏には完成して同年10月に自身のピアノとフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの演奏で初演しています。 クーセヴィツキーミトロプーロスのアメリカ・デビューのきっかけもプロコフィエフの弾き振りです。すでにドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、モナコ、ポーランド、セルビア、ソ連などで成功を収めていたミトロプーロスですが、その模様は、ピアノ協奏曲第3番の楽譜を出版していた「ロシア音楽出版社」の経営者でもあるクーセヴィツキーにも知らされていました。ミトロプーロスに興味を持ったクーセヴィツキーは、自身が音楽監督を務めるボストン交響楽団に客演するよう要請し、1936年1月にミトロプーロスが渡米します。 そしてこのクーセヴィツキーによる招聘がきっかけになって、ミトロプーロスのキャリアが本格的に花開き、そして学生だったバーンスタインも自分をミトロプーロスに売り込むことに熱中するようになっていくのです。 もっとも、当のクーセヴィツキー本人は、ミトロプーロスのことを現地新聞などが書き立てた際に自分のことを揶揄されたのが面白くなかったのか、翌1937年の再客演以降は1944年まで客演話はありませんでした。 そしてそうしたミトロプーロスのボストンやミネアポリス、ニューヨークでの成功により、1946年2月のライフ誌では、ミトロプーロスの紹介記事が5ページに渡って掲載され、その内容にクーセヴィツキーが激怒。楽団側が決めていた同年12月のミトロプーロスのボストン交響楽団への客演を妨害し、キャンセルさせてしまいます。 原因は、ミトロプーロスのボストン響客演の成功にクーセヴィツキーが嫉妬していたなどという記者の文章でした。また、そこに掲載されていた水泳パンツ姿で日光浴用ランプの光を浴びる写真なども真面目なクーセヴィツキーを刺激した可能性があります(南欧人のミトロプーロスにはカナダ国境に近いミネアポリスの冬は太陽が弱すぎたということなのですが)。 クーセヴィツキーはもともと、不倫を問題視したボストン市議会議員の告発によって契約を打ち切られたピエール・モントゥーの後任として選ばれた人物であり、道徳的なスキャンダルには過敏に反応する傾向があったようで、自分で委嘱したオペラ「ピーター・グライムズ」についても、作曲者のブリテンが同性愛者だったことを後から知って困惑するほどでした。そして、ボストン響の周りに同性愛の音楽家が多いことを嘆いてみせてもいました。要するにモラル重視の資産家後援者たちの機嫌を損ねないよう必死だったということです。 ともあれ、このクーセヴィツキーの1936年の招聘のおかげでアメリカを拠点にする生活に切り替わったので、やはりクーセヴィツキーの存在は有難いものでした。ギリシャは1941年にはドイツに占領されて略奪され、翌年にかけて30万人が餓死するなど大変なことになっていたので。 収録情報CD1●ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」 1 April 1951 ●ベルリオーズ:歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲 26 April 1956 or 1953? ●ショーソン:交響曲変ロ長調 Op.20 29 August 1943, Carnegie Hall, NEW YORK●マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調~プルガトリオ 16 March 1958, Carnegie Hall, NEW YORK●フランク:「交響的変奏曲」 19 April 1953, NEW YORKCD2●マーラー:交響曲第1番 ニ長調「巨人」 9 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORK City●マーラー:交響曲第10番 嬰ヘ長調よりアダージョ 16 March 1958 or 17 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORKCD3●マーラー:交響曲第3番 ニ短調 Beatrice Krebs, contralto; The Westminster Choir 15 April 1956, Carnegie Hall, NEW YORKCD4●マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調 2 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORKCD5●マーラー:交響曲第9番 ニ長調 23 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORKCD6●ドビュッシー:「イベリア」 7 February 1954, Carnegie Hall, NEW YORK●ラロ:「スペイン交響曲」 Op.21 ジノ・フランチェスカッティ(ヴァイオリン) 3 April 1955, Carnegie Hall, NEW YORK●ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」 (1919) 29 August 1943, Carnegie Hall NEW YORK●ラフマニノフ:「ヴォカリーズ」 8 May 1955, Orpheum Theatre, SeattleCD7●シェーンベルク:ペレアスとメリザンド Op.5 29 October 1953, Carnegie Hall, NEW YORK●ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第 4 番 ヘ短調 05 April 1953, Carnegie Hall, NEW YORKCD8●ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 Op.90 20 April 1952, Carnegie Hall, NEW YORK●ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 Op.98 15 November 1953, Carnegie Hall, NEW YORKCD9…